U.S.A!! U.S.A!!
前回のフランスに引き続き、ついに神兎研がアメリカ大陸へ!?…ではなく、九州のUSA市。すなわち宇佐市です。
最近は”Made in USA”というような良いノリで話題を作っている宇佐。しかしこの地名自体は、アメリカ建国よりも圧倒的に古く、古事記には「宇沙」、日本書紀には「菟狭」の記述がみえます。そう「菟」=「兎」。そもそも読みも「うさ」。これは神兎研としては調べねばなりません。
JR日豊本線の宇佐駅は神社風の装飾がなされています。こちらは、かの宇佐神宮の最寄り駅。全国4万社とも言われる八幡宮の総本社です。
駅から車で10分ほどいきますと、
こちら宇佐神宮に到着いたしました。さすがの広い駐車場と太く長い参道。
最初の鳥居です。屋根を持ち大きく沿った形は、ここ宇佐神宮にしかない形で「宇佐鳥居」と呼ばれます(明神鳥居より反りが大きく額がない。また八幡鳥居と呼ばれるものは反りがなく端が斜めにカットされている)。
鳥居の脇には由緒書があります。
宇佐神宮御由緒
当神社は全国に四万社あまりある八幡宮の総本宮であります。
神代に比売大神が馬城の峰(大元山)に御降臨になった宇佐の地に、欽明天皇32年(571)応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡幸ののち神亀2年(725)に亀山の一ノ御殿に御鎮座になりました。
また天平3年(731)比売大神をニ之御殿にお迎えし、のち弘仁14年(823)神託により神功皇后が三之御殿に御鎮祭されました。
皇室は我が国鎮護の大社として御崇敬篤く、特に八幡大神が東大寺大仏建立援助のため神輿にて上洛されたこと、また和気清麿公が天皇即位にかかわる神託を授かった故事などは有名であり、伊勢の神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。(鳥居脇 由緒書)
全国にある八幡宮の総本社! 日本の神社の数は10万社、摂社末社を含めると20~30万社とも言われますが、その中でも最も多いと言われるのが八幡宮です。武家である清和源氏、桓武平氏からの崇敬を受ける武運の神とされます。詳しくは後ほど本殿前にて。
さて、鳥居をくぐった脇にあるのがこちらの「神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑」です。碑の後ろには「神武天皇甲寅年冬舟師ヲ帥ヰテ筑紫国菟狭ニ至リ給ヘリ聖蹟ハ此ノ地方ナリト推セラル」とあります。
手前に更に詳細な解説がありました。
日本書紀によれば、神武天皇は御東征のとき、日向を発たれ、椎根津彦命の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸されました。
このとき宇佐国造の祖である菟狭津彦命・菟狭津媛命が天皇一行をお出迎えになり、一柱騰宮を建て饗(ご馳走)を奉ったことなどが記されています。これを記念して昭和15年(1940)に、この顕彰碑が建てられました。
神武天皇はもちろん日本神話に語られる初代の天皇。九州高千穂(宮崎)に降りた神・瓊瓊杵尊の曽孫です。このときのお名前は、神倭伊波礼毘古命。宮崎・日向から近畿のヤマトへ向かう長い旅“神武東征”の初期のエピソードです。
この地方を治めていたのが、菟狭津彦命・菟狭津媛命の2人(古事記では宇沙都比古・宇沙都比賣)で、天皇の一行をもてなし、一柱騰宮(古事記では、足一騰宮)を建てたとあります。
日本書紀原文。
行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。
古事記では、
故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
菟狭津彦命と菟狭津媛命の関係は不明ですが、菟狭津媛命が天種子命(中臣氏の遠祖)と結ばれていますから、兄妹でしょうか。
宮の名前について、本居宣長の古事記伝によると「宮の一方は宇佐川の岸に片かけて構へ、一方は流れの中に、大きなる柱を唯一たてるなり」とありますが、日本書紀の「一柱騰宮」の文字を解釈するとそうなるということで、どちらかというと読みを優先し、「一足だけあがったちょっと立ち寄った宮」という気もします。ただ鳥居の原型が、古代信仰では1本の柱だったという説もあり(「高木神」にもつながる)、菟狭津彦命達がどのような信仰や文化を持っていたかについて、気になりますね。
神橋を渡って境内へ向かいます。こちらの川は寄藻川。先に挙げた日本書紀にみえる「菟狹川」はこちらだと言われています。
その先には更に宇佐鳥居(大鳥居)が構えられ、くぐると広大な境内になります。
境内に広がっているのが菱形池。蓮が広がり、花を咲かせています。ここの池には宇佐神宮の由緒に関わる伝えがありました。
欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形池のほとりの泉のわくところに、ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿の鍛冶をする翁があらわれて、この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりしました。
大神比義が見に行くと老人の姿なく、かわりに金色の鷹が見えました。比義が『誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で鷹になったのか』と問うと、鷹は金色の鳩となって比義の袂の上にとまりました。
神が人を救済されようとして自ら変身されたことを知った比義が、3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、この泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれ『われは誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、神道として垂迹せし者なり』と告げられました。そしてたちまち黄金の鷹になって駅館川(やっかんがわ)の東岸の松の上にとどまったといわれます。
そこに和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の林に移られ、ここに小山田社を造営。神亀2年(725)年に現在の社地、亀山(菱形山とも小椋山ともいう)に移されて八幡大神様が鎮座されたのが宇佐神宮の創立です。
(宇佐神宮HPより 『靈卷五 八幡宇佐宮御託宣集』菱形池邊部 からの要約)
大神比義は宇佐神宮の神官の始祖となる人。境内入り口で見た由緒の、八幡神の顕現の記述がなされています。
記述にある鷹居社は、鷹居神社(鷹居八幡宮)として、宇佐神宮の西1kmくらいのところに鎮座します。こちらの伝承では、大神比義と辛嶋勝乙目によって祀られたことになっている。大神氏と辛嶋氏はともに宇佐神宮の神官です。
『八幡神』はとても謎の多い神です。記紀には出てきません。
あとで述べますが、3柱もしくはそれ以上の神の習合だと思われます。
そのうち1柱は、宇佐神宮では、当初「8つの頭を持つ鍛冶の翁」として現れ(鍛冶神?)、鷹や鳩になって、応神天皇(誉田別命)と同一の神となっています。
同じ「八幡宇佐宮御託宣集」には八幡神の言葉として「辛国(からくに)の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という一文があります。八流の幡は八幡の名称のもととなった言葉と言われ、「八(や)」は数が多いこと、「幡」は「旗」を意味し、神の依り代とされています。「辛」は「韓」や「伽羅」に関連すると言われ、八幡神の源のひとつが外来神であったことが示唆されています。
私としては、渡来人系である辛嶋氏が祀る「ヤハタ」の神と、いくつかの周辺の神々と、大神氏が奉じる「ホンダワケ」の神をここでひとつにしたのではと考えています。さらに神仏習合も行われました。
ん? 菟狭津彦命達から連なる宇佐氏はどこへいったのでしょう。
そんな疑問を持ちながら、先に進んでまいります。
ここから参道は山へと入っていきます。
参道にある石灯籠は、柱が6角。火袋が6面なのはよくありますが、柱までというのは少し珍しいような。
参道には摂社が並ぶ中、こちらは別格。
宇佐神宮の下宮です。嵯峨天皇の弘仁年間(810年~824年)に、上宮の分神を祀り、上宮が国家の神であるのに対して、下宮が民衆の神と言われています。
3つの御殿からなり、一之御殿は八幡大神(応神天皇)、二之御殿が比賣大神(ひめおおかみ)、三之御殿が神功皇后。ご祭神については、上宮で改めて。さらに一之御殿には大神比義を祀る大神祖神社が相殿とされています。
傍らには「兆竹」があります。宇佐神宮で行われていた卜占で、焼いた亀甲を冷ますのに使った竹らしい。
宇佐神宮は古くから国家の大きな出来事において神託を下ろしています。
有名なものとしては、聖武天皇が東大寺大仏建立の際(745年)に鋳造に必要な金の確保を託宣を求めたところ、「われ天神地祇を率い、必ず為し奉る」と託宣し、実際に奥羽より金が献上されたというもの。仏教の神のために、天神地祇を率いるというのは、かなり神仏混合した託宣でした。
また、女帝・称徳天皇の折(769年)、天皇の寵愛を受けていた弓削道鏡が偽の託宣で次の天皇につこうとしたとき、和気清麻呂が改めて真の託宣を求めたところ「皇諸をたてよ」という託宣を下し、皇系を護っています。
ホンダワケの神道とヤハタの神、仏教をも大局的に見て道を示す。当時の朝廷が強い信仰と信頼を寄せていたようです。伊勢神宮と並ぶ二所宗廟とされていました。
こちらは春宮神社。祭神は莵道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)です。お。神兎研っぽくなりました。莵道稚郎子命は京都宇治に祀られる神であり、応神天皇の御子です。神兎研では先日の記事で紹介いたしました。春宮とは、皇太子のことです。
異母兄である大鷦鷯尊(仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと日本書紀では伝えています(実際には「宇治天皇」という名もあり、即位して仁徳天皇と争ったとも言われています)。
宇治の宇治神社、宇治上神社には神兎がいるのですが・・・頑張って探しましたがこちらにはいらっしゃらないようです。残念。
応神天皇の御子ということで、大鷦鷯尊(仁徳天皇)も祀られています。こちら若宮神社。祭神は、大鷦鷯命、大葉枝皇子、小葉枝皇子、隼別皇子、雌姫皇女の5柱。応神天皇の子は鳥に関連する名前が多いですね。大鷦鷯命、隼別皇子、雌姫皇女には因縁もあったような気もするのですがスルー。莵道稚郎子命だけが分けられているのは、やはりそういうことなんでしょう・・・。
参道を登っていきます。木々に囲まれ、シンとした雰囲気です。
坂を登りきると、最後の宇佐鳥居が見えてきます。これをくぐると、
上宮の西大門に到着いたしました。文禄の頃(1592年)改築。四脚向唐門な重厚な作りで、朱が眩しく色彩鮮やか。
蟇股には様々な装飾がなされています。外側二列は、上部に龍、宝珠と日・月。内側は、上部に牡丹、五三桐と菊花。
日月は各々波に浮かび、彩雲を照らしています。赤い方が日。白い方が月。
このあたり神性が表現されているような気がするのですが・・・。
さて、門をくぐれば・・・
こちらが上宮です。
3つの拝殿が並び、中央は楼門のように高い。柱や梁の朱と屋根の檜皮葺のコントラストは、いわゆる和風なところと大陸風なところ、神社的なところと寺的なところを共存させた、独特な雰囲気を持っています。奥側にある本殿は屋根を二棟つなげた「八幡造り」になっているとのこと。本殿は安政2年~文久元年(1855~1861)に造営。国宝です。
拝殿は、左から一之御殿、ニ之御殿、三之御殿。
一之御殿 | 八幡大神(応神天皇) |
二之御殿 | 比賣大神 |
三之御殿 | 神功皇后 |
由緒書に依れば、
神代に三神の比賣大神がご降臨になったこの宇佐の地に 約千四百年前の欽明天皇32年 応神天皇のご神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地を巡幸後この亀山にお鎮まりになりました のち弘仁14年 応神天皇のご母君であられる神功皇后をお祀りし 三殿のご鎮座となりました
(上宮 由緒書より)
順に参拝をしてまいります。
宇佐神宮では「二礼四拍手一礼」で行います。この作法で拝むのは他では出雲大社などわずか。通常の神社では「二礼二拍手一礼」です。
こちら一之御殿には、八幡大神(応神天皇)が祀られています。先に菱形池のところで述べた、八頭の鍛冶翁が大神比義の祈りにより、応神天皇として顕現されました。
そして中央のニ之御殿です。ご祭神は「比賣大神」。その神名からは、女神であろうことしか分かりません。櫓型の屋根を持ち、中央に鎮座する比賣大神は、八幡神を横に従えた宇佐神宮の中心であるように見えます。
社伝では、比賣大神は三女神であると伝わります。すなわち多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命の三柱。筑前の宗像大社や安芸の厳島神社でも祀られている神々です。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約によって誕生したとされる神で、多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三女神のことを言います。筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられており、八幡様のあらわれる以前の古い神様、地主神であるとされています。(宇佐神宮HPより)
三女神は、アマテラスとスサノオとの誓約によって誕生した神々。古事記、日本書紀の本文においては、アマテラスがスサノオの十握劒を噛み砕いて生まれましたが、日本書紀の一書では、
日神、先食其十握劒化生兒、瀛津嶋姬命、亦名市杵嶋姬命。又食九握劒化生兒、湍津姬命。又食八握劒化生兒、田霧姬命。(略) 卽以日神所生三女神者、使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣、今在海北道中、號曰道主貴、此筑紫水沼君等祭神是也。
とあり、十握劒(とつかのつるぎ)から瀛津嶋姫命(おきつしまひめ)またの名は市杵嶋姫命、九握劒(ここのつかのつるぎ)から湍津姫命が、八握劒(やつかのつるぎ)から田霧姫命が生まれ、三女神は葦原中国の宇佐嶋へ天下ったとあります。
この宇佐嶋こそが、宇佐神宮の南側にある御許山。山頂には3つの磐座があるとされ、宇佐氏により古くから信仰されていました。
宇佐神宮の神紋は、尾長三つ巴紋になっています。これは三女神をあらわしたものなのかもしれません。(宇佐神宮のHPでは、八幡大神は十六弁八重菊紋、神功皇后は五七桐紋)
ただ別の伝承などでは玉依姫が祀られているとも言われます。玉依姫は巫女的立場の人間であったり、海神の娘の玉依毘売命(神武天皇の母)のことであったりします。卑弥呼が眠っているとも・・。実に謎の多い神です。
参拝に戻り、三之御殿です。こちらには、応神天皇の母である神功皇后が祀られています。そういえば、住吉大社で神功皇后と共に祀られている住吉大神も、現在では上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の三柱として祀られていました(参拝はこちら)。
いくつかの神々がまとまったり別れたりは、大きな信仰を集める神々によく見られます。祀る氏族が増えることで、神性が統合されていくのでしょう。
上宮の南側に「大元神社遥拝所」とあります。こちらから、宇佐嶋と呼ばれる御許山(馬城峰)にある大元神社を拝むことができます。
宇佐嶋を望みます。古代宇佐氏の信仰の対象であり、神兎研としては非常に重要な神域です。
3つの磐座がある山頂は禁足地であるとのこと。右写真は大元神社の禁足地の結界となっている鳥居です。手前に拝殿を構えそこまでは参拝できるとのこと。また向かい側に、三女神の“父”とも呼べるスサノオを祀る八坂神社があるようです。(引用元)
「八幡宇佐宮御託宣集」(巻八・巻十四)の「奥宮御許山絵図」として大元神社の絵図がありました。いくつかの磐座があり、それぞれ神を宿しています。一番上の「一」「二」「三」が三女神が降臨した磐座でしょう。「中央の石が最も大きく高さ一丈五尺(約4.5m)の烏帽子型、右の石はこれに次ぐ大きさで形はほぼ同じ、左の石は高さ四尺(約1.2m)余りと小さく、人の手が加えられた痕跡がある(九州国立博物館・国宝大神社展)」
菟狭の神域です。いつか登ってみたいと思います。
さて、山を下り、宇佐神宮内の参道を戻っていると・・・
摂社の表札を発見。宇佐祖神社で祭神は菟狭津彦命です。ですが近くにはそれらしい建物はなく・・・東へ向かってかなり歩いた脇に、
頓宮がありました。こちらに祀られているのだと思われます。
宇佐氏の祖神としての菟狭津彦命。こちらも神兎研の拝礼スポットといえるでしょう。
一方の菟狭津媛命は天種子命へ嫁いでいます。天種子命は中臣氏(藤原氏)の遠祖ということですが、瓊々杵命と共に降臨した天児屋命の孫。中臣家の系図を見ると、その御子は「宇佐津臣命」となっており、菟狭の家系が中臣氏を経て、藤原氏へとつながっていったことが見えます。
ただ宇佐祖神社の位置にちょっと確信がなく、さらに参道をまっすぐ行ったところ、鳥居と山へと登る石段がありました。頑張って途中まで登ってみましたが、奥には大尾神社(祭神:八幡大神)があり、さらに道は山に登っていくよう。あとで調べると、ここは「おもと古道」と呼ばれ、大元神社のある御許山へ続く参道のようです。
とすると、元来御許山を信仰していた菟狭氏の宇佐祖神社が、先の頓宮の位置にあるのも頷けます。とりあえずの納得をいたしました。
参道近くには「宇佐飴」が販売されています。宇佐神宮名物。
神功皇后が皇子の応神天皇(八幡大神)を育てるときに、母乳の代わりにしたとされる飴で、“お乳飴”との由緒が伝えられています。少し柔らかく、素朴な甘さ。
門前町で少し食事を。
大分名物のだんご汁ととり天のセット。だんご汁は小麦粉の太平麺を味噌仕立ての汁に入れたもの。野菜の出汁がでて優しい味。とり天は、鶏肉の天ぷら。酢醤油と辛子で食べます。
三女神や菟狭氏についてまだまだ謎が残り、御許山も登らなければなりませんので、また来たいと思います。
(参拝:2015年8月)