千葉の成田市にある印旛沼。この「印旛」は「いんば」と読みますが、白兎伝説で有名な鳥取の「因幡」と音が似ています。そんな印旛沼のほとりに集中する麻賀多神社という古社に、神兎がいらっしゃるという。早速、“印旛の白兎”に会いに参りました。
こちらは北印旛沼。ヨシなどが周囲を囲んでいるので、水際がどの辺りか分かりにくいですね。沼の奥では小舟が走っています。
さて、とりあえず地図で地理の確認です。
印旛沼は千葉県の北部の、印西市・佐倉市・成田市などにまたがる沼です。戦後に干拓が行われて、北印旛沼と西印旛沼の2つに分かれていますが、元はW字型の大きな一つの沼でした。さらに古代には、霞ヶ浦より広がっていたと考えられている「香取海」とつながる水上交通の要衝でした。
麻賀多神社はその東~南部に集中しています。今回訪れるのが、総本社である「台方の麻賀多神社」と奥宮である「船形の麻賀多神社」。その他にも京成佐倉駅近くの「佐倉藩総鎮守 麻賀多神社」(HP)など、佐倉市などに20社を数えるといい、他の地域で見られない社名です。「小麻賀多」が「駒形」になっている場合もあるようです。
台方 麻賀多神社
北印旛沼に沿う宗吾街道。村の窮状を将軍に直訴し、村を救う代わりに死罪となった佐倉宗吾の道です。台方の麻賀多神社は、街道沿いの台地の上に坐し、杉、スダジイ、アカガシの太い木々が濃い社叢を作っています。(千葉県成田市台方1)
「延喜式」式内社であり、古くからこの地に鎮座されている社です。
鳥居をくぐります。明神鳥居の中央には十六菊の紋が施されています。
太い木々と灯籠の間をくぐり抜けるような参道。
祓戸がありました。瀬織津姫・気吹戸主・速開都姫・速佐須良姫の4神は、大祓詞(おおはらえのことば)に残っている罪や穢れを祓う神々。手水での禊と同様に、全てを清くして参りましょう。
階段を登りますと・・・
拝殿と本殿があります。
拝殿は平成30年に建て替えられたばかり。真新しい木肌と装飾が輝いています。
祭神 | 稚産霊神(わかむすびのかみ) |
稚産霊神とは、『古事記』では和久産巣日神、『日本書紀』では稚産霊とされる神。イザナミの神産みにおいて最後に生まれたとされ、自然を育む生成の力を神格化した神です。
『古事記』においては、伊邪那美命が火の神である火之迦具土神を生んで火傷をし病に伏せった際、その尿(ゆまり)から、水の神・弥都波能売神が生まれ、次に和久産巣日神が生まれました。和久産巣日神からは、食物(ウケ)の神である豊宇気毘売神が生まれています。
『日本書紀』では第二の一書として記載されています。イザナミがカグツチを生んで死ぬ間際に、土の神・埴山姫と水の神・ミズハノメを生みます。そこでカグツチがハニヤマヒメを娶り、稚産霊が生まれたとされています。稚産霊からは、桑・蚕・五穀が誕生するという、食物起源の伝承です(いわゆる「ハイヌウェレ型神話」)。
その昔日本武尊東征の折 この地方の五穀の実りが悪いのを知り 里人を集め大木の虚に鏡を掛け その根本に七つの玉を埋めて 伊勢神宮に祈願いたしましたところ その後は豊年がつゞきました 又三世紀の頃 印旛国造伊都許利命は この御鏡を霊代として祀られる稚日霊命の霊示をうけ 玉を堀り御霊代として 稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り 麻賀真の大神と崇め 八代 神津の両郷を神領として奉斎しました その後推古天皇十六年(608年)新に宮居をこの地に建て 麻賀多の大宮となづけました
(境内『麻賀多神社由緒』より)
由緒書によると、この地に祀られた経緯は、印旛国造伊都許利命が、ヤマトタケルの埋めた7つの玉を掘り出して御神体として祀ったとされています(ド、ドラゴンボール・・)
またさらに、もともとは「真賀多真」であったところを、三種の神器である「勾玉」と同じ音であることを憚り「真賀多」に改称。さらに、この辺り一帯が麻の産地であることから、「真賀多」を「麻賀多」に改称したという説も見受けられました。
祭神である和久産巣日神から生まれた豊宇気毘売神は、伊勢神宮外宮に祀られています。菊花紋はその関連でしょうか。
麻賀多神社自体の神紋は、「麻の葉」とのこと。屋根に紋が入っています。6つの葉をもつこの紋は、六芒星にも見えますね。
先も述べましたように、麻の産地であるこの地方。古語拾遺では麻を植えたところよく育ったので、「総国」と呼ぶようになったとあります。(「総(總)」は「麻」の古語だと古語拾遺は書いていますが、他に用例がないようです。「ふさふさ」と音が近いのは感じます)
旧拝殿にも、同じように麻葉紋と菊花紋があったようです。(右写真/引用元)
さて、後ろの本殿側へ回り込みます。
赤く彩られた本殿。麻賀多神社は赤をよく使っていますね。千木は水平です。
そして、本殿後ろ側の蟇股には、
見返りながら波に跳ねる波兎が一柱。
波は五彩に彩られ、右上には日が上っている様が表現されています。
なぜ兎かは、なんとなくは四方を見ると分かりました。
こちらは本殿正面側。鳥が彫られています(隙間から撮ったので、ボヤけてますが・・・)
麻賀多神社は西にある印旛沼に向かうように建てられています。すなわちこちら側は西側。
干支でいうと「酉」。つまり神兎がある側は東であり「卯」ということになるかと思います。
ただ、ちょっと分からないのが、北側と南側で、
北側(左写真)は欠けてしまっているのですが、小さい蛇が彫られているように見えます。南側(右写真)は牛のような気がします。本来であれば北側に「子(ねずみ)」、南側に「午(うま)」があれば良いのですが、不可解です。ひょっとして、北側は蛇は残っていますが、欠けた部分にネズミがあったのかも。南側の彫刻は牛に見えますが馬なのかも(そう見ると尾が太い)。
南北は一致しませんが、卯の方角(東)を守護する神兎・・・ということで良いでしょうか。そう考えると、東から太陽が上ってくる様を描いているようにも見えます。
波を彩色するのは珍しいと思います。赤・青・白の3色で構成されているようです。雲を彩色で描くのは出雲大社の天井の「八雲」などはありますが、この波はより神の世に近いイメージでしょうか。
“印旛の白兎”にも物語がありそうな気がいたします。
さて、麻賀多神社で見るべきもの、それが本殿左奥にあります。
こちら、杉の御神木です。境内の数ある巨木の中でもとりわけ太く、幹周りは10m。高さは40mと言われており、東日本一の大杉とのことです。木の脇の由緒書によれば「今から約1370年前(聖徳太子時代)現在の稷山に新たに宮殿を建て麻賀多大宮殿と称された、此の大杉は其の当時に植えられたもの」とあります(※隣の教育委員会による碑には樹齢は1200年とある)
木の幹の迫力に圧倒されます。
いわゆるパワースポットになっているらしく、この日も木から何かエネルギーを浴びている参拝客がいらっしゃいました。
ちなみに、麻賀多神社を有名にしたもう一つのスポットが、
こちらの本殿の後ろ側にあります。昭和19年(1944年)に、画家で神道家の岡本天明氏が、国常立尊からの啓示として「日月神示」を自動書記で受け取った・・・ということで、日本や世界の行く末が示されているそうです。難解な文章で8通りに読めるということなので、興味ある方は検索してくださいまし。
岡本氏が啓示を受ける前に参拝した摂社が、こちらの「天日津久神社」です。以来、参詣者が多いのか、他の摂社に比べて立派な石祠です。
「天日津久神」は他所では現れない神名のようです。岡本氏が「”日津久”神示」ではなく、「津久」を「月」と読んでいるのは、元からその意味が込められていたのか、あるいは全く別の意味なのかが気になります。全国にある「日月神社」は「じつげつ」「にちげつ」と読んでおり、例えば千葉いすみ市の「日月神社」では、大日霎貴命と月夜見命を祀っています。オオヒルメムチは日本書紀における最初の太陽神の名前(アマテラスは一書で別名とされる)。ちなみにこの時生まれたのは「月神」(一書で月夜見尊とされる)です。
元の意味が“天の日と月の神社”だとすれば、「太陽には烏、月には兎」という中国よりの伝承の伝播が古くからありましたので、何らかの神兎との接点があったかもしれません。千葉のいくつかの神社で行われている射日神事(おびしゃ)においては、日と月を矢で打つ神事が伝わっています。
神庫の中が見られるようになっていました。神輿には特に麻の紋や兎はなく、巴紋です。脇に、おそらく前の拝殿のものだと思いますが、屋根の一部が安置されており、麻紋が施されていました。やはり星にみえますね。なんというか、“中2心”がくすぐられる気がします。
船形 麻賀多神社
台形の麻賀多神社から北へ1kmほど行ったところに「奥宮」とも呼ばれる船形の麻賀多神社があります。こちらも台地の上に坐しています。かつて一帯は公津村でしたが、これは「神津」から転訛したとも言われ、船がつく水際を思わせます。とすると「船形」という字もそれに関連したものかもしれません。
こちらの鳥居をくぐると、すぐ右手に・・・
古墳です。麻賀多神社の由緒書の中にある、印旛国造伊都許利命の墳墓と伝わっています。応神天皇の世に印旛の国造に任命され、稚日女命と稚産霊命を奉斎した人物。全長36m高さ5mの方墳とのことで、石室などを見ることができました。年代は7世紀半ば~後半で、鉄剣や鉄製印波国造印が発掘されているそうです。
さて、参道を進みましょう。台方より明るい感じがしますね。
赤の両部鳥居をくぐりますと・・・
拝殿です。御祭神は、
祭神 | 稚日霊神(わかひるめのかみ) |
麻賀多神社は、平安時代に編修うされた「延喜式」の「神名帳」に記載されている由緒ある神社で、市内台方区稷山(あわやま)と、ここ船形区手黒の二社あります。台方社は稚産霊神を、船形社は奥の宮で稚日霊神をお祭りしています。
(神社前掲示板より)
先の台形の由緒書にあったように、ヤマトタケルが大木に鏡をかけて7つの玉を埋めたものを、伊都許利命が改めて掘り出して祀りました。鏡の方を依代にしているのが稚日霊命。即ちこの船形の御神体と思われます。玉の方が稚産霊命で台形に祀られているようです。
稚日霊命は、日本書紀では「稚日女尊」と記されます。生田神社(神戸市中央区)や玉津島神社(和歌山県和歌山市)でも祀られる神。日本書紀では高天原で衣を織っていたところ、スサノオの狼藉に驚き、持っていた道具で体を傷つけ亡くなってしまいます。これらのスサノオの乱暴により、アマテラスが岩戸に隠れ、よく知られた「天岩戸の事件」が起こります。
稚日女尊は、アマテラスの妹とも娘とも言われており、その字から、まだ幼い太陽の神であることが伺えます。先述の大日霎貴命やアマテラスは、現在の太陽の神ですが、稚日女尊は“別に存在した”太陽の神ともとれます。
ここでふと、先述の射日神事の元となる中国の射日神話を思い出しました。かつて世界には多くの太陽(7個,10個,12個など伝承によって異なります)が存在し、地上が熱くなり作物が実らずにいました。それを英雄が撃ち落とし、現在の1つにしたというもの。伝承によっては最後の1つの太陽が隠れてしまい今度は夜が続いたので、鳥の鳴き声や踊りによって復活させるというエピソードも伴います。これは実は天岩戸神話と源を一つにするものとして考えられています。
ヤマトタケルが埋め伊都許利命が掘った7つの「玉」が、何を意味するのかを考えた時、ひょっとしてそれは「多過ぎた太陽」という可能性はないでしょうか。
太陽の力を操り、生命力を育む力を願う、そんな祈りを感じています。
さて、拝殿の後ろに回り込むと本殿です。台方と同じように赤い社殿。こちらの装飾は、菊などの花が使われているようで、神兎は見当たりませんでした。
麻賀多神社 大鳥居
ちなみに、台形の麻賀多神社の一ノ鳥居は、台形から西の印旛沼側に1kmほどいったところにあるそうで、向かってみました。神社前にあったものは二ノ鳥居らしい。
印旛沼を向いて建っています。延暦2年(783年)に勅使として大伴家持が建立したと伝わり、以来61年ごとに建て替えているとのこと。この地への水運が発達し、参拝もこちらから行っていたことが伺えます。
印旛沼 名物・・・
で、参拝を終え、ご飯。
麻賀多神社のあった宗吾街道は、今では鰻屋さんが並ぶことから「うなぎ街道」とも呼ばれています。
その中でも有名店の「い志ばし」。なんとも素朴な建物で、過去には「きたなシュラン」でも紹介されました。
「うな重」2600円。ええと・・・今まで食べた鰻で一番甘い・・・。蒸しをしてないとのことでして、確かに鰻のストレートな食感と脂が楽しめます。お店の人の荒ぶった感じもまた一興でした。
あ。
そういえば、「因幡」と「印旛」についてですが・・
もともと「いなば」もしくは「いんば」は、漢字流入以前の「やまとことば」であったようで、「いな」は「稲」、「は」は「場」もしくは「葉」の意味をもっているようです。
鳥取の「因幡」については、『和名抄』で「以奈八」「以奈波」、『古事記』で「稲羽」の漢字が当てられています。奈良時代の風土記編纂の際に、2文字の漢字をつけるよう命ぜられたため「因幡」に決まりました。
一方、千葉の「印旛」については、印波(いには)などとも当てられておりますが、意味は同じであろうと思われます。周囲の沼は、まさに水田に適した土地だったと考えられます。「いなば」という土地は全国に多く残っています。
言葉が同じだから同名も当然・・・なのですが、人の移動を考えた時に、出雲族は新潟~群馬ラインでこの地に流入してきています。一方、九州から房総側へ流入してきた海人族もいました。似た祭祀や文化が残っていれば、関連も見えてくるでしょう。
千葉から茨城にかけて、鰻、もとい、水運で繋がる地域には、まだまだ古代の信仰が隠れているようです。太陽と月を追いかけていくと、神兎にも出会える気がしています。
(参拝:2019年7月)