頭上を旅客機が通り過ぎます。ここは千葉県成田。ある意味、空に最も近い場所です。そんな地に「星神社」というこれまた空に縁にありそうな神社が。ちょっと星を訪ねて参りましょう。
JR成田線で成田の隣の久住駅。駅から小山を回り込むように進むと、目指す「星神社」の入り口はあります。住所としては、千葉県成田市大生109です。
木々に埋もれそうな神明鳥居。知らなければちょっと入るのを躊躇われる雰囲気です。
鳥居をくぐると、つづら折りの石段が上へと向かっています。石段の寄贈碑や石祠がところどころに。
更に続く苔むした石段。周囲は竹林と雑木林が混ざりあっています。
竹林を進むと・・・
2つ目の鳥居です。苔で少し緑色で、周囲に溶け込んでいます。
こちらの鳥居、くぐってすぐが盛り上がっており、実際の参道は鳥居を右に迂回しています。奥にちょっと見えるのは、三峯神社の石祠ですが、こちらの為の鳥居ではないでしょうし。少し奇妙。
2つ目の鳥居を過ぎると、平坦な段になります。竹林の向こうに社殿が見えてきました。
実はここは中世の城跡です。大生城と呼ばれていますが、詳細は分かっていないようです。かつて砦があったと思われる一番上の段(主郭)に神社が建っている形です。
ひょっとしたら先程の鳥居と迂回する参道も、何らかの土塁などの関係があるのでしょうか。
星神社に到着です。拝殿と後ろ側の本殿を覆う“覆屋”は、ここ数年で建てられたもののようで、まだ木肌が新しいです。
扁額には「妙見宮」とあります。
「妙見」とは、仏教における北極星への信仰。「妙見菩薩」や「北辰菩薩」とも呼ばれる仏の姿をとります。
「千葉県神社名鑑」では、
祭神 | 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) |
となっているようです。天之御中主神は古事記の中で、天地開闢の際に一番最初に現れる神。
天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
「天と地が初めて開いた時、高天原に現れた神の名前は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)です。この三柱の神は、(夫婦神でも男女区別もない)独り神で、身を隠してしまいました」とあり、天之御中主神についてのその後の記述はありません。
中国の「太極」などにみられる、世界の全ての中心の象徴的な神なのかもしれません。
平安時代においては、天之御中主神を祀る神社は『延喜式神名帳』には見られなかったようですが、近世に入り妙見信仰と習合することにより、祀られるようになってきます。明治の神仏分離令後、多くの妙見信仰の寺社が、祭神を天之御中主神としたようです。
妙見信仰については、またどこかで。
失礼して、拝殿より本殿を覗きます。装飾は少なめですが、立派な屋根を持つ本殿です。千木は垂直になっているようです。
さて、拝殿手前の石灯籠に戻りまして・・
こちらの左右の基壇に、神兎が彫り込まれていました。
こちらは向かって左側の石灯籠。波に跳ねる見返りの神兎です。波の向こう側には朝日が描かれています。
向かって右側の図案は、灯籠への図案としては珍しいかもしれません。
「秋草に兎」だと思われます。花か葉のような部分は萩でしょうか。シュッと伸びているのはススキ。秋草文様は、その他にも葛や桔梗、菊、女郎花などが合わせられ、絵や食器などに広く描かれる定番模様でした。この秋草に兎を合わせる図案がよく見られます。
秋草と兎によく合わせられるのが月で、中秋の名月の下で、兎が跳ねたりあるいは月を望んだりという絵がよく見られます。こちらの灯籠では月は描かれていないようですが・・・。また、この仲睦まじい背中合わせの2羽の兎の文様もたまに見かけますね。
右側の灯籠の図の左下には、波の文様があります。「秋草に兎」の図に水辺を入れることはあまり無いように思いますが、これは、ちょうど左側の灯籠と一連の絵にするためなのかもしれません。
こんな感じ。
つまり、海で波に跳ね、山で秋草の中で寛ぐ神兎達を、ひと繋がりの風景として描いているように見えます。
灯籠には日付が「文政十一 子 四月吉日」とあります(左右同日)。文政11年は1828年、干支は子(ねずみ)でした。卯であれば、兎を採用した意匠となった理由とも考えられるのですが、建立の干支では関係ないようです。
とすると・・・こちらに兎がある理由が不明です。妙見菩薩が兎(月)と烏(太陽)を伴っている例はあるようなのですが・・・。
兎と星の繋がり、今後どこかで出会うこともあるかもしれません。
さて。
地図を眺めていると、近くにもう一つ星神社があるようです。車で少し移動〜。
地図で神社は小山の上に記載されていましたが、ふもとに鳥居などはなく、入り口に迷ってウロウロ。県道沿いの集落に「東和泉城址」の標柱をみつけました。先程の大生城と同様、小山の上の城跡に鎮座した神社のようです。神社の住所は成田市東和泉字城山。
民家の脇を抜ける細い道は、やがて小山を登る階段につながります。
先程と同じようにつづら折りの階段。
登った先は平らになっており、畑とその先に鳥居が見えました。このあたり一帯が城跡であり、土塁と空堀で区切られた郭になっているようです。
鳥居の脇に、城跡の案内板がありました。
東和泉城址
東和泉集落の後背に広がるこの台地は、16世紀の末ころまで大須賀氏一族が代々城主として拠っていた中世の城郭址です。大須賀氏は、源頼朝の股肱の臣 千葉常胤(つねたね)の四男大須賀四郎胤信(たねのぶ)を祖とする一族で、現香取郡大栄町松子を本拠地として、同郡下総町助崎をはじめ東総地域に多くの支城をもったこの地域における最も有力な武将でした。
(略)
築城時期は明確ではありませんが、戦国期(15世紀後半から16世紀後半)と推定され、千葉氏一族の城郭に多く見られる連郭式の縄張りを見せており、一部損壊は見られるものの、城郭遺構として郭(I~IV)、空堀、土橋、腰郭、土塁、堀底道などの防御施設もよく遺存しており、小規模ながら美しく整った城郭址であります。主郭部は、城址の中で最も面積が広く城山という地名の残るIIIの郭と思われ、郭の北側には千葉氏の守護神妙見菩薩を祀る星神社が鎮座しております。
(略)
(城址案内板より)
こちらの城は歴史が分かっているようですね。千葉常胤から繋がる大須賀氏の城。そして、この星神社が千葉氏が信仰していた妙見菩薩であること記載されています。
千葉氏は、桓武平氏の流れをくむ有力豪族で、まさに「千葉」を拓きました。中でも千葉常胤は、平安末期から鎌倉時代前期の武将で千葉氏中興の人物です。平安末期の保元の乱を源義家と共に戦い、また源頼朝が挙兵し鎌倉幕府を開く味方となっています。
千葉一族は、その頃関東に広まっていた妙見信仰を一族の要としたようです。農耕神や鎮守神として穏やかな菩薩像として描かれていた妙見菩薩を軍神として信仰しました。同じ関東の武家の崇敬を集めていた平将門も、やはり妙見信仰です。その姿は、北の守り神である玄武に乗った、甲冑姿で剣を持つ姿で描かれています。
一族を守護する神として、新たに城や館を建てる時には妙見社を建立しており、千葉各地にその信仰が根付きました。
つまり、これらの星神社は、もともと千葉氏に連なる大須賀氏により、築城の際に勧請されてきた神仏なのでしょう。
鳥居をくぐりまして、境内です。拝殿と覆屋の本殿。手前に石灯籠と石の手水舎があります。灯籠は火袋が無くなってしまっていますが、大生城にあったような彫刻は無いようです。
拝殿には特に神額や神紋などは見受けられないようです。
本殿の懸魚には波。こちらにも神紋などはありません。
ただひとつ特徴がありました。
それは、この本殿が北を背にしているということ。北極星は常に北にある星。妙見信仰においては、方角が非常に重要になってきます。本殿の背後に北極星があるわけです。
厳密に言うと、大生城・東和泉城の2社とも、少し西に向いているようです。これはおそらくなのですが、磁北(コンパスが向く方向で、真北からズレる)で建立されているせいかと思われます。磁北は時代によって変化をし、現在だと7°西くらい。ちなみに17世紀くらいだと東にズレていて、例えば京都二条城などは東に3°傾いています。
社殿の右脇に石仏がありました。青面金剛ですね。こちらは庚申信仰。中国の道教の三尸説を元にして、庚申の夜に、体内にいる「虫」が天に悪事を報告に行かないよう夜通し起きているという「庚申講」を行いました。日本へはかなり古くから入った信仰で、江戸時代に庶民の間に広まっています。「庚申」と書いた「庚申塔」、このような「青面金剛」または「猿田彦」の碑が、全国に建てられました。
石碑の上部には、日月が彫られています。天との関連を思わせる配置となっていますが、庚申信仰では、かつては北斗七星を本尊とする場合もあったとのこと。この場にあるのは偶然かもしれませんが、この時代・この地域は、「妙見」「北斗」「星」「天」への信仰が多いように感じます。
妙見信仰の代表的な神社といえば、千葉氏が深く関わる「千葉神社」。星に誘われているような気もしますので、次は、この千葉神社に参りたいと思います。
ということで・・・・
次回っ!神兎研究会っっ! 北斗七星の元に神兎が走るっ!!! 『いま語ろう!北斗2000年の歴史』っっっ!!!!
(↑↑↑「北斗の拳」の千葉繁さんナレーション風に読んでください)
帰り道に再び旅客機が通り過ぎました。
おお!ANAの「スターウォーズ ジェット」ですよ。
この手前の「BB-8」ですね。
↑テーマ曲付きのこちらの動画は胸アツです。
「スターウォーズ」・・・今日は本当に「星」に縁があります。
(参拝 2019年7月)
近日訪ねてみたいです!