尾張の神社には「蕃塀」と呼ばれる独特な塀があります。こちらにも神兎が刻まれているらしい。
それはすぐに調べねば!
・・・の前に腹ごしらえです(ぉぃ)。名古屋といえば名古屋めし。その代表の「ひつまぶし」(東鮓本店・中区栄)。暑い季節の神兎研の活動には精がついて最適です。
では、参りましょう。
伊福部神社(海部郡七宝町)
まずやってきたのは、海部郡七宝町にある伊福部神社。
御祭神 日本武尊
伊福部の連の敬愛する神様であり天平2年(730年)に創建された。明治5年(1872年)には郷社に列せられ、同25年(1892年)に熱田神宮西方に祀ってあった八百万神の本殿を移し、これが現在の本殿である。
(境内「伊福部神社の由緒のあらまし」より)
伊福部の姓・地名は、美濃地方を中心にみられます。「いふく」という役割を持つ「部(べ)」であるとされ、「火吹部」「息吹部」という鍛冶関連ではないかという説も。
祭神については、上記由緒ではヤマトタケルとされています。ただ、境内にあった「伊福郷之碑」の説明には「この地に伊福部連(いふくべのむらじ)という氏族が居住していたことによるといわれており、伊福部神社も伊福部連の祖先を祀ったものである」とありまして、『新撰姓氏録』では伊福部氏は「尾張連同祖、火明命之後也」ということですので、ひょっとして古い祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)(尾張氏と同祖)かもしれません。
また、境内で会った地元のおばあさんによると、ここには「伊勢のおんな神」様が祀られているということでした。本当の祭神が少し謎な気がしますが、ただ由緒にもあるように、地元の方に敬愛されている神であることは間違いありません。
参道を進みます。最初の鳥居を抜け、
赤い鳥居もくぐります。細長い社地ですね。さらに進むと、
? 社殿の手前に何かが見えてまいりました。
社殿の前に立ちふさがる謎の塀・・・? 参道が迂回しています。
これが「蕃塀」です。
特にこちらの神社・祭神に限ったものではなく、尾張地方の神社に広くみられ、社殿の手前に設置されます。「不浄除け」「透垣」などとも呼ばれるとのこと。「蕃」の字には、「かきね」「かこい」の意味がありますので、やはり社殿を外の世界から切り離す一種の結界なのかもしれません。
伊勢神宮などで、参道の中央を「正中」と呼び、神の通り道(神様はそこまでウロウロしないと思いますが)として人が通るべきではない、というものもありますし、例えば茶室の「にじり口」は、武士も町人も身をかがめて入ることにより平等の空間を楽しみます。また、神職は祭祀のときには正面を避ける動きをしていますね。
正面から、うりゃ~とズカズカ突き進むより、ちょっと神域に端っこから失礼して入らせて頂きますという感じの所作が、この蕃塀により実現されるのかもしれません。
斜めから見るとこんな感じです。
蕃塀を圧倒的調査・研究によりまとめている「蕃塀マニア」さんによれば、蕃塀には大きく分けて「連子窓」と呼ばれる格子窓がある「連子窓型」と、窓がない「衝立型」があるとのこと。後者の「衝立型」は伊勢神宮に見られ、こちらの成立は平安まで遡るようです。一方、尾張の蕃塀は江戸時代に現れ始め、当時は「透垣」「籬」と呼ばれており、伊勢神宮の「蕃塀」という呼称が尾張の「透垣」に、近代以降に使われるようになったのでは、と推論しています。
材質としては、木造(熱田神宮や津島神社)と石造りの蕃塀があるようです。こちらの神社は石造り。
後ろに回り込んでみます。参道が見えなくなるため、「あちら側」と「こちら側」の神域の境目が明確になる気がします(鳥居もその役割を果たしているわけですが)。
さて、表側に戻りまして・・・
下部に目をやると、石造り彫刻の神兎が1柱いらっしゃいました。この左右は昇り鯉になっています。連子窓の上部は龍ですね。
文様は、神社ではおなじみの龍や獅子、水に関連した文様(波)、神紋など様々のようです。
こちらの兎は右上に「卯年」とあります。どうやらこの蕃塀の設置年ですね。裏側には、昭和2年(うさぎ年・1927年)5月に寄付された旨が刻まれていました。
石にレリーフで刻まれた神兎は、ふっくらとした体と耳を持っていて、なかなかの美兎です。石灯籠などのレリーフは大体小さめですし、石造りでこの大きさの神兎は、蕃塀ならではと言えると思います。
蕃塀の横をすり抜けて、進みます。
神楽殿(舞殿)?と思ったのですが、尾張だとこれが拝殿のようです。四方に壁がない建物。
で、通常は木造なのですが、その先の本殿へとつながる廊下的なもの。これを渡殿と呼ぶらしいです。伊福部神社では石造りで屋根はありません。寝殿造りでの用語で訓読みなのですが、音読で「とでん」でないと少し引っかかる・・。
さらに、通常だと「拝殿」と呼びそうなこちらが「祭文殿」。「祝詞」が日本古来の祭儀に読まれ、伝統的ないし公的な性質を強くもつのに対し、「祭文」は個人的・私的な性格を有し、中国から伝来した祭祀などに唱えられることが多かったらしいです。このあたり、祝詞・祭文をもう少し掘り下げたいところです。
ちなみに「兎に祭文」という、「馬の耳に念仏」や「猫に小判」「犬に論語」と同じような、大変神兎に失礼な言葉もあるらしいので、これは神兎研としては禁句ですね。
それはともかく。
尾張はつまり、蕃塀だけではなく、この境内の配置がちょっと特殊。これを「尾張造」と呼ぶらしいです。「鳥居⇒蕃塀⇒拝殿⇒渡殿⇒祭文殿⇒本殿」という配置。祭文殿から回廊が伸び本殿を囲っている場合もあります。
蕃塀の成立は、この尾張造りが出来上がるまでの過程を追うと見えてくるような気もします。
裳咋神社(稲沢市目比町)
さて。蕃塀の神兎巡拝の2社目は、稲沢市目比町の、裳咋神社です。
太古、この辺りは大沼を取り囲む水田があり、田船で往来する水郷地帯であった。
大沼には葦がいっぱい生え水鳥が藻を食べていた。これより藻咋(もぐい)という。
(引用:サイト「延喜式神社の調査」より)
『延喜式神名帳』に「中島郡裳咋神社」とある式内社であり古い神社です。祭神は裳咋臣船主。この地の豪族である裳咋臣の祖神だと思われます。
鳥居をくぐって進みますと、
来ました。来ました。
はい。バーンと蕃塀。
連子窓の上は龍、下部には、中央が紋(五三桐紋)、右側が波兎、左側が波千鳥です。
大きい波濤に溶け込むようにして、波の神兎が跳ねています。波の表現がとても伸びやか。
左側は千鳥。千鳥はあまり神社の装飾として現れないかもしれません。絵画や食器などの図柄として波と千鳥のモチーフはよく使われますね。つまりこの蕃塀での波と兎・千鳥の表現は、より絵画的組み合わせということなのかもしれません。やや新しい明治以降の図柄の選び方のような気がします。
一応、蕃塀を後ろから。制作は昭和3年とありました。
拝殿~渡殿~祭文殿~本殿の配置は、こちらも尾張造。渡殿にも屋根がついており一体化しています。
なるほど。小さめの神社の尾張造りの基本の形のようです。
神明社(稲沢市祖父江町三丸渕)
蕃塀の神兎巡拝の3社目です。田んぼの真ん中にコンモリとした社叢。
こちらは神明社です。
創立年代は不詳で『寛文村々覚書』の下丸淵新田村に「神明」の存在が記載されているそうです。
「神明社」はいわゆる伊勢信仰の神社の総称。中世以降、伊勢神宮の御師が全国に信仰を広め、分社を作りました。ですので、祭神は恐らく天照大神でしょう。
鳥居をくぐって進めば、
ババーンと蕃塀(←表現気に入った)
敷石が蕃塀を迂回しています。
文様は、上部に龍。下部中央に兎。左右に唐獅子牡丹です。
神兎です。あれ?伊福部神社とそっくりな・・・右上に卯年とあるのも同じです。
後ろに回り込んでみると、設置が昭和2年10月。石工名として「ナゴヤ西区キクヰ町二丁目
石工 角田乙吉」とありました。写真を見直してみましたら、これは伊福部神社で刻まれていた石工名と一緒です。といいますか、2社目裳咋神社も「角田乙吉」によるものでした。まさかかつての神兎研会員だったのでは・・・と思い、先述の「蕃塀マニア」さんで調べてみたところ、かなり蕃塀を作っていた石工だったらしく、干支を始めとして様々な文様を刻んでいるようでした(こちら)。
それにしても3社共とは・・妙な縁ですね。
こちらも同じように尾張造りで、拝殿と祭文殿、本殿が並んでいました。
さて。蕃塀神兎巡拝は、今回はこのくらいで。調べる限り、この尾張西部にまだまだあるようです。続きをそのうちやろうと思います。
ところで、今回この時期にこの地に来た理由なのですが・・・。
津島神社(津島市)
こちら津島神社で「津島天王祭」が今夜行われます。
津島神社は、牛頭天王を祀る神社で「津島天王社」とも呼ばれます。天王社の中では、同じく牛頭天王を祀る京都の八坂神社と並ぶ神社。欽明天皇元年(540年)鎮座と伝わる古社です。
こちらで行われる「津島天王祭」は、7月の第4土曜日とその翌日に行われる夏の初めの風物詩。一度は見るべき日本の祭りです。本日はこれから「宵祭」があります。
まずは参拝を。
津島神社は、戦国の武将達からも崇敬をうけました。織田信長は氏神として造営に協力し、この「南門」や「楼門」は豊臣秀吉の寄進です。本殿は徳川家康の四男で清洲城主・松平忠吉の寄進とのこと。これら尾張出身の天下人の後を追いかけ、境内を進みます。お祭りの提灯がすごいですね。
そして門をくぐると、
バババンと蕃塀です!
こちらは木造。神社の規模に伴ってか、立派な構えをしています。提灯で見えにくいですが、窓がある「連子窓型」。
拝殿です。拝殿の前には「茅の輪くぐり」が作られていました。8の字にこの話をくぐることにより、無病息災を祈ります。これは蘇民将来の伝説に基づいており、『蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付ける者』は厄を逃れられると言われます。
拝殿の奥は、渡殿で回廊へとつながっており、その先には祭文殿と本殿があります。つまり大規模な「尾張造」になっています。
さて参拝をすませて、本日の祭りの会場へ向かいます。
神社から少し行ったところにある「天王川公園」です。この公園の中心にある「丸池」は、かつて町を流れていた天王川の入江部分にあたるようです。川ではなくて池。実は、川でやるものだと思っていました。
池へと降りていきます。
丸池の周りには見物のための椅子や桟敷席が準備されています。芝生で見る人も。
池は広め。空が開けています。この丸池から枝のように、長細い池(「車河戸」と呼ばれます)が接続しているのですが、そちらで今回の祭りの“主役”の準備が進んでいます。
屋台もたくさん出ています。京都の八坂神社の祇園祭では、神紋の木瓜に似ているということで、きゅうりを祭りの最中は食べないという話しを聞いたことがありますが、こちらはあまり関係無いようですね。神紋は同じですが、冷やしたきゅうりの一本漬けは美味しく出店されています。
支流の「車河戸」に来ました。こちらがこの「津島天王祭」の「宵祭」で使われる「巻藁船」です。祇園祭でいう山鉾。一般のお祭りで言うと山車に当たるものです。これから火をともした提灯を柱を中心に掲げていきます。
ヒョロヒョロヒョロという「津島笛」を中心とした曲に合わせ、船の中心に提灯が揚げられていきます。
京都の祇園祭の「お稚児さん」は人形となりましたが、こちらでは5歳未満の子供が勤めます。「神の憑坐」であり「神の子」である稚児は、神社に行ってみたり船に乗ってみたり(現在では宵祭出航前に降りるそうです)行事は満載。地に足をつけてはならないため、肩車で移動します。
中心の提灯が掲げられ、周囲に円形につけられる提灯の準備に移りました。
あとは丸池の方に戻って、登場を待ちたいと思います。
こちらは翌日の朝祭に使う車楽船かな? 「布鉾」と呼ばれる布のついた三叉の鉾が準備されています。船から男達が布鉾を持って池に飛び込み、津島神社まで運びます(布鉾神事)。
丸池まで戻りました。日が落ち、辺りが暗くなる中、花火が上がります。昔は結構高く上げていたそうなのですが、時代の流れ。池の周りでは低めに抑えて、別の遠目の会場で高く上げているとのことでした。
そして8時半頃・・・
提灯を全面にともした巻藁船が現れます。花火は終わり静かな水面に、雅楽が響きます。この日はよく晴れて、月もとても綺麗でした。
巻藁船は、池の南東の車河戸から、津島神社に一番近い池の北岸へ向かい、戻ってきます。北岸には津島神社の御神体が移された御旅所があり、船はこちらに立ち寄り参拝するわけです。神に祭りの船を見て頂く感じでしょうか。翌日の朝祭りで、提灯を外し、車楽船として実際の神社への参拝を行います。
半球状に配置した提灯は、1年の日の数365個(現在は400個だそうです)。また中心から上に伸びる柱は「真柱」と呼ばれ、1年の月の数である12個(閏年は13個)が上げられています。
巻藁船は全部で5艘。激しい音楽がなるわけでもなく、威勢良い掛け声がかかるわけでもないのですが、連なって進む情景は、豪華。そして幽玄。
帰っていく巻藁船。水面のゆらぎに提灯がゆらりと反射します。とても良いものを見させていただきました。
津島天王祭が終わるといよいよ夏本番です。
おまけ
名古屋めしに始まり、名古屋めしに終わる。
津島神社近くにある「レストラン天王(佐屋本店)」でも名物が楽しめます。
ババババンと「ジャンボ海老フライ」。名古屋人はエビが好き(ただ「エビフリャ~」とは言いません)。
東海の歴史は古く、まだまだ調査することあります。名古屋めしも制覇しなければ。
(参拝:2015年7月)