葉山の地に鎮座する須賀神社。この地に鎮まるには、まさに前世の物語がありました。傍らの神兎は何かを目撃したのでしょうか。
夏休みに入ったばかりの逗子海岸。残念ながらちょっと天気が悪かったのですが、それでも海水浴客が集まっています。
逗子海岸から葉山方向を望みますと、写真右側の端っこに見えるのが、葉山マリーナです。このすぐそばに、本日の目的の神社が鎮座しています。
(右のピザは、逗子海岸近くの海の見えるイタリアン「CANTINA」のしらすピザ。うまー)
須賀神社(神奈川・葉山)
日本ヨットの発祥の地として知られる葉山。日本有数の歴史と格式の「葉山マリーナ」・・・らしいです。庶民にはよく分かりませんが、舟遊び楽しそうだなぁ。島とか行きたいなぁ。
その葉山マリーナの裏手の路地を進んだところに、須賀神社は鎮座します(神奈川県三浦郡葉山町堀内44)
海岸から一段上がった高台の上。すぐ北側には源頼朝ゆかりの鐙摺城址の高台もあります。白い神明鳥居が、海に似合いますね。
「須賀神社」は牛頭天王やスサノオを祭神とする祇園信仰の神社です。
古事記の中で、スサノオが八岐大蛇を倒し、クシナダヒメを妻として出雲のある地に立ち寄った際、「吾、此地に来て、我が御心すがすがし」といって宮を作ったことから、その地が「須賀」とされました。そこで詠まれた歌が有名な、
「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」
という恋愛歌です。「須賀」は幸せに満ちた名です。
もっとも、全国の多くの須賀神社は明治以前は、スサノオと習合している牛頭天王を祀っており、「天王社」などと呼ばれていました。かつては、どちらかというと、厄落とし的な信仰が強かったと思われます。この辺りは時代の流れ。
境内です。改めまして祭神は、
祭神 | 須佐之男命(すさのおのみこと) |
です。神職は、先日訪れた葉山森戸神社が兼務しているとのこと。
小さい社殿ですが、こちらの御神体が面白いのです。
ですが、その前に・・・
神兎研としては虹梁上の目貫の彫刻に注目。
立派な神兎の彫刻。木目の扱い方が非常に綺麗です。他には木鼻に獅子などがある程度ですので、なぜ兎をピックアップしたかが気になります。波との関連から、海難除け関連でしょうか。そういえば、鎌倉では十二所神社が神兎推しでした。
彫刻の後ろ側にも波が彫り込まれています。
ちなみに神社の後ろ側はバス通りになっています。
さて、先程述べかけましたこの神社の御神体です。話は逗子海岸から山へ3-4km向かった逗子の岩瀬という場所から始まります。
当地にはかつて天王社が字岩瀬にあった。この天王社に神輿があり、いつもこの神輿が荒れ往来の人馬を苦しめたことがあったので、神輿の鳳凰を土中に埋め輿は海へ流したという。流した神輿は鐙摺に流れ着き彼地ではこれを祀り、鐙摺の天王社となったと伝える(『改訂 逗子町誌』)
「神輿が荒れる」というのがどういう状況か分からないのですが、牛頭天王はしっかりとお祀りする必要がある神様です。そして流すのもどうかと思うのですが、海へ出た際にこちらの鐙摺で引き上げられました(近くの茅ヶ崎では、神輿ごと海に入る「浜降祭」が行われているので、そちらのことを表現しているのかもしれません)
引き上げられた状況がまた特殊かつ具体的で、
丁度その時、肥桶を洗っていた鈴木氏が肥柄杓で掬い上げ現在の地にお祀りされたと云われている。依って肥柄杓の先端に榊を立て内陣に納められている(『神社誌』)
・・・すごい由緒ですね。失礼して拝殿を覗き込んでみましたが、本殿は見えましたが戸は閉ざされていたため(当たり前)、内陣を伺うことはできませんでした。
いわゆる流されて、流れ着いた先で祀られる神としては、有名なのはイザナギとイザナミの間に生まれた蛭子神です。『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海の神となって夷三郎殿として西宮に現れました(西宮大明神)。また漂着物をエビス(恵比寿)として祀る地域も多いようです。
まさに、神の前世! ということで、強引に神兎研は東京・四ツ谷に飛びます。
須賀神社(東京・四ツ谷)
同じ名前の「須賀神社」。
神社に続くこの坂道の階段が、四ツ谷で最近有名になった場所です。
赤い手すりの特徴的な階段。坂の名前は「男坂」と呼ばれます。
登って上から見ますと・・・
♪君の前前前世から僕は君を探し始めたよ
そのぶきっちょな笑い方を
めがけてやってきたんだよ
君が全全全部なくなって
散り散りになったって
もう迷わないから探し始めるさ
むしろ0からまた宇宙を始めてみようか♪
(RADWIMPS『前前前世』)
アニメ映画『君の名は。』で、主人公達がすれ違う階段。いわゆる「聖地」になっており、この日も海外の方が、すれ違いながら写真を撮っていました。
ちなみに須賀神社にはもう一つ坂があります。こちら「女坂」。クランクになっていてこちらも趣深い。
女坂を登ったところにある赤い明神鳥居から境内へ。
都会の神社らしく境内はそれほど広くはありませんが、色々なものが詰め込まれていて密度が高い感じです。
拝殿に到着。祭神がかなり多いので、摂社などは除いています。
主祭神 | 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと) 宇迦能御魂大神(うかのみたまのおおかみ) |
相殿 | 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと) |
右 御子五男神 | 天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命・活津彦根命 |
左 御子三女神 | 多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命 |
相殿 | 大鳥神社 |
相殿 | 大国主命 |
京都の岡崎神社でもそうでしたが、明治より前の牛頭天王信仰では、牛頭天王と妻神・頗梨采女その子神・八将神を祀っていたことが多く、これらが日本神話に対応した神々に読み変えられています。
そして、その内に入らない宇迦能御魂大神が祀られているのですが、これはむしろ先の祭神。
須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎭守で清水谷にあったのを、後、寛永十一年(1634年)に江戸城外掘普請のため当地に移されたものである。
須佐之男命の鎭座の儀は、寛永十四年(1637年)島原の乱に日本橋、大伝馬町の大名主馬込勘解由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、寛永二十年(1643年)、神田明神車社内に祀つり、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永二十一年六月十八日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになつた、通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た、明治元年(1868年)に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戰後は制度改正により旧社格は撤廃された。
(境内掲示『由緒』より)
当初は、稲荷神社だったところに、天王社を合祀したようです。合祀した結果、
左右にある狛犬ですが、台座にある紋が異なっています。左側が宇迦能御魂大神の「抱き稲紋」。右側が建速須佐之男命だと思われる(通常だと木瓜紋)「左三つ巴紋」。
2つの紋が結ばれ、こちらの神紋になっています。かっこいい。
天王社ということで、夏越の祓のための茅の輪くぐりの準備中。
左右に竹をつける作業中です。ちょうど梅雨の雨の合間に参拝に参りましたが、夏の準備は始まっていますね。
絵馬所に向かうと、
例の坂が描かれた絵馬が。アニメの聖地ですから、その裏は当然、
アニメ絵がぎっしり。海外の方が多いのも印象的です。
社務所を覗いて気になった御守りです。スサノオとクシナダヒメとの出会いをモチーフにした「縁結び守」。
ちょうど「君の名は。」でもこの場が時空を超えた出会いの場になりました。日本神話では、ヤマタノオロチの生贄になるクシナダヒメをスサノオが助けることによって2人は出会いました。
前世、結び、祈り、願い。
神話の時代から続く神と人の交錯です。それをたぐっていく作業は面白いですね。
(参拝:2017年7月(葉山)/2019年6月(四ツ谷))