信州の佐久市。こちらを通る中山道は、東は軽井沢を経て関東へ、西は諏訪を通り尾張へ抜ける古くからの重要な街道です。また、古代においては、日本海から東国へと抜ける人々の流れの中にありました。信州の神と言えば、諏訪大社。その諏訪大社に縁のある佐久の神社にも神兎がいらっしゃいました。
佐久を流れる千曲川です。関東の私からすると、北に流れる川はちょっと新鮮。千曲川は、新潟に入り信濃川と名前を変え、日本海へと注ぎます。遠く南西側には八ヶ岳連峰が見えています。
中山道から分かれ、千曲川を上っていったところにあるのが、こちら新海三社神社です。迫力のある木肌を持つ両部鳥居。「一の鳥居」です。太く撚られた注連縄をたれ下げるようにして結んでいるのは、珍しいと思います。
山に向かって参道を上っていきます。まっすぐにのびている参道の脇には、かなりの巨木が林立します。手前にあるのはケヤキですかね。周囲6,7mくらいはありそうです。
さらに進むと、スギの巨木と並木。
坂の参道を登りきった先に、拝殿へとつながる階段が見えてきます。両脇をケヤキとスギの巨木が支えます。木をシンメトリに使い、山へと溶け込ませている感じ、いいですね。
手水舎がありました。紋は蔦ですね。尖っているので鬼蔦紋。この先の境内では、神紋は諏訪系神社によく見られる梶紋になります。
左右の狛犬はちょっとユーモラス。前足が内股になっている感じが少し猫っぽいせいでしょうか。
階段を上がると拝殿となります。
素朴な佇まいですが、軒下の垂木の構成が美しい。あしらわれた梶の紋に清々しさを感じます。
新海「三社」の名の通り、祭神は3つの社に分かれています。
東本社 | 興波岐命(おきはぎのみこと) |
中本社 | 建御名方命(たけみなかたのみこと) |
西本社 | 事代主命(ことしろぬしのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと) |
配置としては、拝殿の真後ろが中本社(建御名方命)、並ぶように左側に西本社(事代主命)、少し離れた右側に東本社(興波岐命)が鎮座します。
こちらが中本社と西本社。
建御名方命は、諏訪大社に祀られている神です。古事記においては、天照大神が大国主命に国譲りを迫った際に、国津神の武神として対抗しようとしました。結果、武甕槌命に諏訪まで追われ、この地に鎮まったと古事記では伝えます。
ただ、諏訪での伝承には、このエピソードは描かれず、逆に諏訪に侵攻した神として描かれます。建御名方命が戦い勝った、もともといた土着の神が洩矢神。いまは建御名方命の御子神であったり、摂社として祀られています。洩矢神は、諏訪中心の民間信仰の「ミシャグジ様」と同一視されることもあって、この辺りの古層の神々は興味深いですね。
西本社は、建御名方命の兄である事代主命を祀り、誉田別命(応神天皇・八幡神)を合祀しています。事代主命は、建御名方命と共に大国主命の国譲りの際に登場し、天津神からの要求を承諾します。恵比寿様とも習合。
中本社と西本社の間には、2柱の龍が彫られた「御魂代石」という石塔があります。耳を当てると諏訪湖の音が聞こえるとのこと。諏訪の神々は龍や蛇として描かれることが多いようで、先述の洩矢神は蛇神。龍や蛇への信仰は、奈良の大神神社の祭神の大物主が蛇として現れたり、出雲大社での龍蛇神信仰など、古社を中心に見られます。
こちらの東本社は、中・西本社から少し離れています。祭神が、興波岐命。佐久を開拓した神で、現在では「三社」の筆頭として記されています。
ただ、参道~拝殿の中心線からずれてしまっているので、ちょっとポツンという感じ。どうやらこの場所には、明治の神仏分離以前には、別当寺の本地仏のお堂があったようで、別の場所(現在の拝殿前)から移設されてきたらしい。かつては興波岐命は「三社」としては数えられておらず、本来の三社は、建御名方命・事代主命・誉田別命だったのではという説が、「八ヶ岳原人」さんHP(こちら)にて丁寧に検証されており、なるほどという感じです。
興波岐命について、『新海三社神社由緒』では「神代の昔、興波岐命は父神建御名方命を助けて信濃国を作り、最後に佐久の沃土(よくど)を広め田を開いて、佐久開拓の祖神として祀られた。御佐久地(みさぐち)の神とも言う」とあるとのこと。
ん?「ミサグチ」? つまり「ミシャグジ」ということですよね。
つまり、建御名方命の前の神である「ミシャグジ」様が、興波岐命として大切に祀られているということなのかもしれません。
拝殿前に戻りまして、手前の石灯籠ですが、
こちらは拝殿向かって右側。その基部を見ますと・・・
見返りの波乗りの神兎が一柱。耳が長め。細く鋭いです。また尾も凛々しく長いです。
石灯籠の柱には、龍が彫られております。諏訪の龍蛇への信仰がうかがえます。
ちなみに左側の灯籠の基部に彫られているのは、おそらく鯉。柱部分は龍で一緒です。「登竜門」の名称にもありますが、鯉は滝を登りきって龍になったという「後漢書」の故事があります。とすると、この灯籠こそ、鯉が龍になる様を描いているのかもしれません。・・・とすれば・・・右側の神兎が波を超えて・・・龍になったりすると! “龍兎”となります!カッコイイ!!(ただの妄想です)。
拝殿の隣には神楽殿があります。こちらですが、
アニメ映画『君の名は』で、主人公が巫女舞を捧げる神楽殿のモデルになったのではと言われています(四ツ谷の須賀神社でも登場)。監督は新海誠氏で、実はこちら佐久市出身です。
祭神の興波岐命は、新開之神とも記されたことがあり、「佐久」の地名の由来も、開拓を意味する「開」。そして「新海」も「新開」から来ています。
こちらの新開氏は、
新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し開発領主になったのは、平安末期のころと思われる。
(「風雲戦国史」HPより)
とあり、佐久を通り、武蔵国(埼玉)へ進出していったようです。埼玉の新戒にある古櫃神社では、新開氏は、秦氏の秦河勝の末裔であったことが記されており、「大荒明神」を祀っています。この神は秦の始皇帝とも、祖の秦河勝とも。新開氏伝来の武器を神の依り代としているらしく、新羅に縁があり、鉾などを依り代にすることがあるスサノオに近い神性も感じます。
新羅関連の有名な地名といえば、埼玉の「新座(にいざ)」は、もともと新羅からの渡来人が住んでいた「新羅(にいら)郡」が「新座(にいくら)」に変化し、「新座」となりました。もしかして「新開」の「新」も関係あるかもしれません。
順に並べれば、①この地域に秦氏が開拓に入る→②「にいさく(新開)」と呼ばれる→③「佐久」の地名誕生→④「新開」を「しんかい」と音読み→⑤「新海」と漢字が変わる→⑥新海姓や新海三社神社などの名が誕生。という流れでしょうか。
境内の山側にある三重塔。室町時代1515年建立です。
明治の廃仏毀釈の際には、神社の「倉庫」ということで破壊を免れたそう。
これだけの塔を建立できるということは、当時かなり寺社として力を持っていたと考えられます。
さらに奥に石垣があり、上段があります。廃仏毀釈により破壊されてしまった建物もあったのでしょうか。「なにもない段」も見られました。
奥にある社殿。境内案内図だと「絹笠神社」とあります。群馬には同名の神社があり、養蚕の神とされています。養蚕といえば、やはり渡来人の秦氏です。彼らは養蚕を始めとする先進技術を日本へ伝えてきています。
信州で養蚕が産業として盛んになったのは明治以降ですし、この絹笠神社自体の奉斎は新しいかもしれませんが、ぐるっと回った縁かもしれませんね。
上の段から境内を見渡します。
蝉のお囃子と木々の濃い緑の中に、三重塔の仏と、建御名方命とミシャグジの諏訪の神々が鎮まっています。
先ほどの絹笠神社の奥には古墳群もあるらしい。
佐久の人たちの祈りが集まっているのを、しみじみ感じました。
さて・・・
佐久といえば、鯉です。
地元の人談、鯉は仕込みと料理の仕方で全然違う。鯉嫌い、という人も、こちら佐久の中心地である中込『花月』の鯉を食べると、印象が大きく変わるかもしれません。
鯉のあらい、旨煮、唐揚げ、そして、鯉こく。写真がないですが、鱗煎餅というのも初めて食べました。女将考案の鯉バーガーも頂きまして、どれも絶品。是非立ち寄ってみて下さい。
(参拝 2018年9月)