2022年明けましておめでとうございます!(とか言いつつ書いているのは夏ですが)
コロナが吹き荒れているここ数年。なんとか新しい年を良い年にということで、東京は奥多摩の武蔵御嶽山へ初詣に参りました。こちらにも神兎がいらっしゃることは調査済み。せっかくなので、自力で登ってみることにいたします。
御嶽駅のバスのりばです。ただいま元旦7時過ぎ。5時起きでやってきました。かなーり寒いです。
こちらから御嶽山へ登るケーブルカー駅ふもとまで、バスで移動します。
ケーブルカー御岳登山鉄道の出発駅滝本駅です。ここからケーブルカーに乗れば6分で上がってしまうらしい(そこから30分ほどで神社)。これを歩いて登ると神社まで1時間半くらい・・。ですが、最近体力が落ちてきている私としては、1年の最初くらいしっかり運動をして、今年は少しは体力をアップするきっかけにしよう!と、自力で登ることにいたしました。
駅と線路を横目に見ながら、鳥居をくぐって参道である登山道へ入ります。
登山道は舗装されていますが、つづら折りになったなかなかの登り。歩き始めは寒かったのですが、すぐ体が熱くなってきて、1枚脱ぎました。今日は元旦ということもあり、上から降りてくる参拝者と何人もすれ違います。日の出をみるのであれば、夜中に登る感じですね。
根が張り出した杉の木の間を登っていきます。樹齢は300-400年ほどとのことで、江戸時代からこの坂は「御坂」と呼ばれ、多くの参詣者が登ってきました。
道標がたまに立っています。ここはちょうど中間地点の「なかみせ」。昔は茶店があったとのこと。ここらでケーブルカーの下をくぐります。あー、楽そう。
尾根に向かう参道。その先に日が登ってきました。私にとってこれが今年の初日の出です。息をきらしながら拝みます。
さて、ようやく尾根にたどり着きました。尾根筋には、参詣者が泊まるための「宿坊」が軒を連ねています。
各地で布教をし参詣者を連れてくる伝道者を「御師(おし)」と呼びますが、御師がもてなす宿坊が高所に固まっているため「天空の御師集落」とも。こちらは江戸時代末から建つ茅葺きの馬場家御師宿坊です。
食事処も充実。蕎麦や定食、中華もありますね。登山した後で見かけると本当に美味しそうです。眺望を自慢しているお店もあり、ビールとか書いてあるのにも後ろ髪引かれながら、先へと進みます。
ようやく神社入り口に到着いたしました。7:40に登り始めてここまでで8:40。1時間頑張りました。ここから本殿までは10-15分くらい、もう少しです。
階段を登ると随神門になります。朱塗りのがっしりとした門で、一層の造りながらかなりの斜面に立っているため、存在感抜群です。そしてこの門から振り返ると・・
この眺望!東京の方向がはるか先まで見渡せます。天空の神域へやってまいりました。
さて、もう少しだけ登りましょう。あとちょっと。
江戸時代には庶民の間に「御嶽詣で」が広まりました。関東各地に「御岳講」が組織され、年に一度、講の中から数名ずつ交代で参拝しました。参拝だけではなく、観光や娯楽としての役割も持ち、また各地から人が集まるため、病害虫に強い稲などの種のやりとりなども行われていたとのこと。各地の御嶽講より奉納された碑が、参道脇に所狭しと並んでいます。
参道の石段を登り、最後の階段を拝殿に向かって上がりました。頂上で振り返ると、再び関東平野が大きく広がっています。
そして正面には、威風堂々、大きくカーブを描く唐破風を構える武蔵御嶽神社の拝殿です。元旦の澄み渡った青空に、朱塗りの社が美しく映えています。
本殿は神明造。こちらはシャープな屋根。凛とした佇まいです。
境内の由緒書によれば、
社伝によれば、創建は第十代崇神天皇七年と伝えられ、第十二代景行天皇の御代日本武尊御東征のみぎり、難を白狼先導によって逃れられたといわれ、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆天神社として記されています。
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の中心として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。
天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南面だった社殿を東面に改めました。
明治維新により、御嶽神社の社名となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。〜境内案内板「武蔵御嶽神社由緒」より〜
祭神 | 櫛眞智命(くしまちのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 廣國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)(安閑天皇) |
奥宮 | 日本武命(やまとたけるのみこと) |
御眷属 | 大口眞神(おほぐちまがみのかみ) |
とても多層的な信仰であるようです。
まず、①日本武尊(ヤマトタケル)の伝説が伝わっていますね。ヤマトタケルは言わずとしれた、日本神話における“ヒーロー”。西国から東国へ辺境を統合していった方と伝わります。皇統であるヤマトタケルは天津神系ではありますが、こちらのように②オオナムチ・スクナヒコナなどの国津神と一緒になることも多いような気がします。またヤマトタケルを導いた「白狼」の存在から③大口眞神が祀られており、こちらは秩父などの関東の山域で信仰される「オオカミ」。そして、祭神の筆頭なのが、④櫛眞智命。こちらは記紀には登場しない「占い」の神であるとのこと。さらに案内板の由緒には書かれていないですが、「御嶽権現」と呼ばれることからも分かるように、⑤蔵王権現も祀られています。こちらは修験道の役行者が祀ったと言われる日本独自の山岳仏教の本尊で、現在は神社ホームページによれば、蔵王権現と同一の神格とされている廣國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)(安閑天皇)として祀られているようです。
平安の時代から武蔵の国の武将らから信仰を集め、多くの刀や鎧などの武具が奉納されています。江戸時代になってからは、徳川家康がこちらを庇護し、南側を向いていた社殿を、江戸方向の東向きに変更し、江戸の西側の護りとしました。
拝殿の向拝には彫刻があります。下段には2頭の虎。上段には龍。美しく彩色されています。
虎は今年2022年の干支ですね。頭を低くしいつでも襲い掛かれるような体制。場所は深山の清流でしょうか。
そして向拝の奥側、左右には・・・
見事な波兎が左右2柱ずつ彫られています。こちらは向かって右手。
こちらが左手です。正面、つまり東側に向かって、朱の梁に映える蒼い波を越えながら、白兎が追いかけあっています。
右側の奥側。ぴんと伸ばした後ろ足は、指先まで表現され、しっかりと波を蹴っています。
右側の手前。こちらはやや見返り気味。波の幾重にもなった造形や、鮮やかな水の蒼と波頭の白のコントラストも美しいです。
裏側もしっかりと彫り込まれています。神兎と波の間に大きく抜ける空間が彫り、切り絵のように波頭で繋いでいるのは、かなり高い美術表現だと思います。
こちらは左側の奥。ポーズはおおよそ左右対象ですが、こちらの方がしなやかですね。
左側手前。見返り度合いが大きいかな。
こちらも裏側のショット。実に丁寧に作られています。
これらの虎、龍、兎の彫刻、寺社には比較的よくある組み合わせではありますが、先述の徳川家康が西の護りとしたという話を聞いて、いくつか思い当たることがありました。
一つは方角。すなわち、東面のこちら側は、虎(=寅)の西北西・兎(=卯)の西・龍(=辰)の西南西と、東向きの干支が揃っています。
そして、徳川家将軍の干支。1代将軍徳川家康は寅年(1542年生)、2代将軍秀忠は卯年(1579年生)、3代将軍家光は辰年(1604年生)です。東側に生まれ干支が集まっているのは偶然だとは思われますが、日光東照宮の五重塔でもこの3干支は将軍を表すと言われたり、高野山の家康、秀忠の廟の向拝には、それぞれ寅と卯が掲げられています。
本神社においては、龍は偶然かもしれませんが、家康・秀忠の2代の干支については、さもありなん、な気がしませんか?
さて、本殿の後ろ側に回ってみますと、
こちらは常磐堅磐社(ときはかきはしゃ)。全国一の宮の神々など87柱を祀っているそうです(一の宮っていくつあるのだろう・・)
社殿は、江戸時代までの旧本殿(1511年建立)で、一間社流造、極彩色の桃山様式を残し美しい。明治にこちらの権現造は仏教的であるとされて、神明造の新本殿となりましたが、こちらの旧本殿も摂社として残りました。
もともと祀られていた蔵王権現は日本独自の修験道の本尊と言われています。釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三仏が合体したもので過去・現在・未来にわたって衆生を救うために現れたと言います。金剛蔵王菩薩とも。修験者・役小角(えんのおづぬ)が示現しました。奈良の金峯山が総本山で、各地に「御嶽」という名前が伝わり、修験者たちが集まりました。この武蔵国の御嶽山は、関東での中心的存在です。
12年に一度、秘仏であるこちらの蔵王権現も開帳されるとのこと(右写真は、奈良如意輪寺の国重文の蔵王権現像)
神仏習合の中では、安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治以降安閑天皇を祀ることも多く、この武蔵御嶽神社も同様です。そのほかにも、大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊、金山毘古命などの神々と習合し、同一視されたため、併せて祀ることも多く、恐らくこちらでお祀りされている2柱もこの流れなのでしょう。
こちらは大口真神社(おおくちのまがみしゃ)です。御眷属である狼を祀っています。
社殿には見事な彫刻。意匠は特に狼ということでもないんですね。
狛犬の替わりに狛狼がいらっしゃいます。眷属とは言いながら、この摂社においては主祭神であり「神像」と呼べるでしょう。
神話においては、ヤマトタケルが関東で蝦夷や山河の荒ぶる神々を治めた後、信濃から尾張に戻ろうとする際に、山の神の白鹿がヤマトタケルを苦しめようと現れたためこれを蒜(ひる:野生のニラ・ネギで邪気を払うとされた)で打ち破ります。しかしそのせいでヤマトタケルは山中で道に迷ってしまうこととなります。その時現れたのが白狼で、導かれて山を出ることができたと言います。
ここ武蔵御嶽神社の縁起も、同じくオオカミが有名な三峰神社も同じ神話が基。場所は、日本書紀では信濃での出来事であり、古事記では足柄山(関東と東海の国境)の事として記載されています。ちなみに白い狼は日本書紀にだけ描かれます。
古くから祀られてきた狼は、ヤマイヌとも呼ばれ、すなわち絶滅したニホンオオカミです。山の中においては、この厄介な獣を味方につけるため、また里においては、畑を荒らす害獣を駆逐したり、その咆哮で厄を払ってくれるということから、この「おいぬ様」を厄除、盗難除け、火難避けとして祀られています。オオカミを祀る神社の護符は、御師達によって、関東の各村へ配られました。
神話での「導きの神」といえば、我らが兎神である「因幡の素兎」もそうですね。神武天皇東征の時の「八咫烏」、あるいは、天孫降臨の際の「猿田彦」などもそうで、大きな力を持った神々も万能ではなく、各地で助けを得て大業を成し遂げているのです。
大口真神社の奥に、遥拝所があります。その先に見えるのは、整った円錐形の山「奥の院」。こちらの中腹には男具那社(おぐなしゃ)が鎮座しており、ヤマトタケルを祀っています。
「男具那(おぐな)」はヤマトタケルの幼名の「ヤマトノオグナ」からでしょう。日本書紀では「日本童男」古事記では「倭男具那命」と記されます。西へ熊襲(くまそ)の制圧に向かった際、熊襲の長である川上梟師(カワカミタケル)・熊襲梟師(クマソタケル)を倒し、その「タケル」という名前をもらったと伝えられます。
ヤマトタケルが各地を平定していった物語は、各地で細かい伝承として残っています。伝説上の人物ではありますが、ヤマト朝廷が実際に各地へ進出していった流れの説話化が行われていったと考えられます。また亡くなった後に、白鳥になってたどり着いた地・和泉国(大阪・堺)に鎮座する大鳥神社も、各地に勧請されました。
武人としての多くの成果を残しているため、武家からの崇敬が篤い神です。この「奥の院」ではヤマトタケルが武具を埋めたので「武蔵(むさし)」の国名が生まれたとの伝承も(音の「ムサシ」は元からあったようですので、漢字の方のことですかね?)。歩くと40〜60分とのことです。
そしてもう少し奥に行くと「太占祭場(ふとまにさいじょう)」があります。「太占祭」とは、案内板によると「鹿の肩甲骨を斎火で焙り、割れ具合から農作物の豊凶を占う神事」であること。現在では、群馬の貫前神社とこちらでしか行われていない日本最古の占いであること。こちらにお力を貸していただいているのが、祭神である「櫛真智尊(くしまちのみこと)」です。
「櫛真智尊」は記紀には出てこない神のようで、検索すると奈良の天香具山には『延喜式』の神名帳に天香山坐櫛真命神社とあり、元の名が大麻等乃知神(おおまとのちのかみ)とされているようです。この関東においては『延喜式』に武蔵国多摩郡「大麻止乃豆乃天神社」が記載されているのですが、こちらの論社の一つとして、武蔵御嶽神社が上がっているとのこと(もう一つは、稲城市大丸にある大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ))。
延喜式の記載がどちらであれ、太占が伝わっている意味は大きいです。イザナミ・イザナギの国生みの際も天津神が太占を使っていますし、また魏志倭人伝にも「骨を灼きて以って吉凶を占う」と記載される、日本の中でも古い占いです。大陸・半島からもたらされたものらしく、骨弥生前期から太占を行ったと思われる骨は出土するとのこと。古代においてはこの「卜占(ぼくせん)」と巫女(シャーマン)に神を下ろす「託宣」により神託を得ていました。
こちらの御嶽神社においては、単に厄を払ったり「救い」を得るだけではない、「導き」を頂きながら、自ら道を切り開いていくことを促す信仰を感じます。新年向きです。
さて、御嶽神社を後にします。朝通ってきた参道を戻り、日の出山の方へ向かいました。東京でも人気のあるハイキングコース。
途中、御嶽山の鳥居があります。こちらから登るのもいいですね。
さくさく下って、9:10神社出発の9:50分着で40分で、日の出山の山頂に到着。
振り返ると、御嶽山の神社と御師集落が見えています。マチュピチュみたいですね。
そしてこちらから見える景色が・・・
関東平野一望!
東京の方への見渡しは素晴らしく、遠くにはスカイツリーが見えています。新年に見る景色としては最高です。
少し南側を見れば、遠くに輝いているのは相模湾。
ヤマトタケルは関東を平定しましたが、その際に妻(弟橘姫)を海で失っています。関東を去る際、妻を忍び「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と言ったと記紀は記しています。よって、アヅマノクニと言われたとも。
私は現在アズマノクニの住人ですし、清々しいこの景色を見ながら、この地でがんばろうとふと思う、そんな初詣となりました。
で、戻る前に少し立ち寄りです。日の出山からさらに1時間ほど下ったところにあります「つるつる温泉」へやってきました。
つるつる温泉は「生涯青春の湯」だそうです。お肌つるつるで、とろろ食べて精もつけて、がんばるぞー、と。
ちなみにこれを書いているのが8月になっているのですが(神兎研がんばれてない(笑))、まさかこの時は、収束すると思われたコロナが、ここから2回も流行するとは。そして2月に自分もかかってしまうとは。勢いだけではなく、しっかり「導き」を得ておけば良かったかもしれません。
(参拝:2022年1月1日)
正月早朝(日の出前)の夜間時に、御岳山~日の出山のルートは、足元が暗いと危険でしょうか?